体験レポ・経験談

西口宅も一部損壊、沈んだ気持ちを「昼飲みコンパ」で晴らすの巻

能登半島地震により不肖・西口の拙宅も一部損壊しました

2024年元旦に起きた能登半島地震は甚大な被害をもたらしました。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、ご遺族の皆様方、被災者の皆様方に心よりお見舞い申し上げます。そして小生こと不肖・西口コージからも、ひとつご報告させていただきたいことがあります。新潟市中央区にある小生の自宅も地震の影響で一部損壊するに至りました。地盤の液状化が顕著な新潟市西区に比べれば軽微なものですが、もしかしたら小生の経験が読者の皆さんの地震対策に多少なりとも役立つのではないかと考え、今回の当ブログでは地震発生からこれまでの顛末についてリポートしたいと思います。読者の皆さんの中には「なーんだ、今回は宴会コンパニオンの話はないのかよ」とがっかりする方もいらっしゃるかもしれませんが、そう焦らないでください。ブログの後半には宴会コンパニオンの話題もしっかり出てきますので、最後までお付き合いいただければ幸いです。さて、時系列順に能登半島地震発生からこれまでの経過を振り返ってみましょう。地震の発生時刻は2024年1月1日午後4時10分頃。石川県の志賀町で震度7の激しい揺れを観測したほか、新潟県は長岡市で震度6弱を観測しました。この地震によって新潟市西区では広域にわたって住宅が倒壊したり、傾いたり、あるいは地盤が割れるなどして大きな被害が発生。一方、地震発生により新潟県の上下越にも津波警報が発令されたことから、新潟市中央区の自宅にいた不肖・西口ら4人家族もただちに700㍍ほど離れた中学校に避難しました。小生は現在56歳ですが、津波警報が発令されて避難したのは生まれて初めてのことです。しかしながら元旦ということもあって中学校の校舎には誰一人いなかったことから、正面玄関の引き戸は施錠がされたままです。いうまでもなく避難してきた住民たちは校舎に入ることができず、ただただ校庭で施錠が解かれるのをアテもなく待っているような状態でした。しかも時間が1分、2分と経つにつれて避難者の人数はどんどん増えていきます。その時点では地震発生から津波到達までの時間がまったく分からなかったわけですが、過去の例からすると津波は地震発生から1時間以上経って到達したこともあれば、わずか15分程度で到達したこともあります。いずれにしても極めて切迫した状況に変わりはありません。校庭を見渡したところ100人以上の避難者がいましたが、とくにリーダーシップを発揮して事態を打開しようとする人がいなかったことから、不肖・西口はとりあえず119番通報して消防に目下の状況を伝えました。ところが消防は「こちらではカギを開けることができないので、学校の先生や職員に連絡をして開けてもらってください」と話すだけで、まったく埒が明きません。こんなとき読者のみなさんなら果たしてどうしますか?

ホリエモンや西村博之だったら、あのときどうしていたか?

中学校の校庭に到着してから5分ほどが経過しました。いや、早急に校舎の3階や4階に避難しなければ津波からは逃れられないという切迫感があったため、わずか2、3分が5分程度に感じられたのかもしれません。小生の傍らにいた大学生の次男が消防では役に立たないと知ると、小生に向かって真顔で「壊すしかないな?」と呟きました。それを聞いた長男も「壊すなら何を使って壊す?」と聞き返すと、次男は自分が引っ張ってきたキャリーケースに目を落として「これを玄関の窓に叩きつけて壊すしかないだろう」と言いました。そして次男が不肖・西口に向かって「やっていいか?」と尋ねてきたので、小生は迷うことなく「やれ!」とゴーサインを出しました。人様の所有物を無断で破壊すれば文字どおり器物損壊罪に問われるわけですが、迫りくる津波から命を守るためにはそんな杓子定規なことは言っていられません。次男はキャリーケースを思い切って玄関の窓に叩きつけました。「ドーン!」―。しかし割れません。次男はさらに2度、3度とキャリーケースを叩きつけます。「ドーン! ドーン!」―。それでも割れません。玄関の窓はガラス製ではなく、割れないアクリル製のようです。いきなり大きな音がしたものですから、校庭に集まっていた女性たちが思わず驚きの声を上げました。すると40代くらいの男性がキャリーケースを手にしている次男に近付いてきて、「気持ちは分かりますが、そういうことをすると皆さんが動揺するので…」とやめるように言ってきました。小生たちも簡単に割れるようなものではないと分かったため諦めましたが、もちろん施錠が解かれるまでその場にとどまるようなことはせず、さらに歩いて近くの小学校まで行ったところ施錠はすでに解かれており、多くの避難者が校舎の3階に集まっていました。その後、幸いなことに津波が押し寄せることはありませんでしたが、小生と次男は教室の小さな椅子に座って先ほどの出来事について話をしました。先ほどの出来事とは、いうまでもなく中学校の正面玄関の窓にキャリーケースを叩きつけた一件です。小生たちのところに近付いてきた男性が言うように、あのとき誰かがカギを開けてくれるのをただただ待つのが正しかったのか否か―。次男は「あの人の言うことも分かるけど、状況が状況なわけだし…」と答えが見つからない様子でした。おそらく気持ちがモヤモヤしていたのだと思います。そんな次男に小生はこう言いました。

「オマエもこの春には大学4年生になって、どこかの企業に就職するわけだけど、企業が本当に求めているのは変革を起こすことのできる人材だよ。その意味でいえば、先ほどの行動は一見乱暴のようではあるけど、今置かれている状況を打破しようとしたのだから変革といえるのではないかな? たとえば想像してごらんよ。もしもホリエモンや西村博之が同じ場面に直面したら、どうしたかって? “そんなもん壊せばいいじゃん!”って言うに決まっているよ」(不肖・西口)

その晩、避難所から家に戻ると、重たい家具が少し移動していましたが、それ以外の家の中の変化には気付きませんでした。というよりも、その時点ではまだ大きな変化はなく、最も恐れていた“何か”が進行中だったのかもしれません。

液状化により駐車場が不同沈下、リビングのフローリングが傾く

異変に気付いたのは翌2日のことです。リビングを家人が歩くたびに、これまでになかった振動が体に伝わってくるではありませんか。最初のうちは昨日の大きな地震で神経が過敏になっているのかと思いましたが、試しにフローリングにビー玉を置いてみるとリビングの中央に向かって転がっていくのです。リビングを出た廊下にビー玉を置いてもやはり転がっていきます。これは明らかに変だなと思い、外へ出て家の周囲を確認してみると、駐車場の一部がかなり傾斜しており、4本重ねて積んであった夏用タイヤが明らかに傾いています。どうやら地盤が沈下したか、隆起したかのどちらかのようです。ほどなくして分かったことですが、小生宅のお隣のお宅に住む老夫婦は昨日のうちに娘さん夫婦のところに身を寄せたといいます。地震の影響で玄関ドアが閉まらなくなったほか、押し入れの引き戸が開かなくなり、また壁の一部も崩れ落ちたそうです。いや、それよりも倒壊の恐れすらあると判断して避難したのでしょう。一方、小生は新潟市に対して罹災証明書を申請。受付開始となった1月6日に申請したのですが、1月下旬時点でまだ調査員は訪問していません。他方、リビングや廊下のフローリングが傾いた原因を早く知りたかったものですから、小生は住宅メーカーに連絡。後日、店長がやって来て家の周囲を点検して発した言葉は、「明らかな液状化ですね」というショッキングなものでした。家の中に入って床下収納スペースから土台を確認したところ、駐車場と同様に不同沈下していて、床束(ゆかつか)と呼ばれる床下を支えるための何本もの短い柱がまったく役目を果たしていないことが分かりました。つまり床下の支えがなくなったためフローリングが傾斜したり、大きな振動が発生したりするようになったというわけです。そのことが判明して以来、小生を含めて4人家族はリビングを歩くときにはなるべく床に力が加わらないようにそっと歩くようになりました。これはなかなかストレスが溜まります。地震保険に入っていたのは不幸中の幸いでしたが、現状、工事の時期はおろか、金額がいくらかかるのかも分かりません。

長岡で昼飲みを敢行、しかもコンパニオン付きでテンションは爆上がり

元旦以来、沈鬱な気持ちで毎日を過ごしているわけですが、拙宅の一部損壊など輪島で被災した方々のつらさに比べれば取るに足らないものといえるでしょう。とはいえ気分が落ち込んでいるときにはやはり、何か気晴らしが必要なのも事実です。東日本大震災のときを振り返っても、避難所の外には空になった大量の一升瓶やビールケースが置かれていたといわれています。「酒でも飲まなければやっていられない」―。被災者がそんな気持ちになったとしてもまったく不思議ではありませんし、それを咎めることもできません。そんなことを思い出した不肖・西口は、地震発生から8日が経った1月9日、沈みがちだった気持ちをなんとか高揚させるための妙案を思いつきました。地震発生以来、家でお酒を飲んではいたものの、外へ飲みに出る気持ちには到底なれなかったのですが、久しぶりに外でお酒を飲んでみようと思い立ったのです。とはいえ余震が心配されていたことから、通常のように夜の時間帯に妻や息子たちを家に残して飲みに出るのはリスクが高いと考えました。仮に夜間に余震が起きたとき、人はあまりにも無防備だからです。こうしたことから小生は夜に飲みに行くのではなく、明るい昼間に飲みに行くことを思いついたのでした。しかも行き先は拙宅から近いJR新潟駅近くではなく、JR長岡駅近くに定めました。気分が沈んでいたこともあって、電車の旅でもして気晴らしをしよう考えたからです。JR新潟駅から信越線に乗れば片道1,170円でJR長岡駅まで行くことができます。所要時間は1時間14分。往復でも2,340円ですから、普段、古町から拙宅までタクシーで帰るのとほぼ同料金です。決して高いものではありません。ネット検索で下調べをすると、JR長岡駅近くには平日にもかかわらず昼飲みができる居酒屋が何軒かあることが分かりました。土日ともなると、その軒数はさらに増えます。そこで考えたのですが、不肖・西口が計画している昼飲みはあくまでも一人飲みですから、たとえば計3軒行ったところで料金などたかが知れています。であるならばコンパニオンを1人呼んで一緒に飲むことを思いついたのであります。つまりはデートコンパの昼酒バージョンです。ホームタウンの新潟駅周辺でこれをやると知人に見つかる可能性もありますが、長岡であればまったく心配はありません。かくして小生は1月9日、長岡の地でコンパニオンとの昼飲みを敢行。結果的には居酒屋を3軒回って、計6時間にわたって美女とのサシ飲みを楽しませていただきました。端的に申し上げて、地震発生以来、久しぶりに心から楽しいと思える時間を過ごすことができて大満足です。50代半ばともなると20代の若い女性の会話や笑顔には本当に癒されて元気が湧いてきます。またお店のスタッフも温かい方ばかりで、とくに「食堂酒場 SHOWAなつかしや」のオーナー氏とは年齢が近いこともあって大いに盛り上がりました。店内にはピンク・レディーをはじめ、郷ひろみ、野口五郎、山口百恵、松田聖子など、昭和を代表するスターのレコードジャケットが壁一面に飾られていて、コンパニオンの女性も興味津々かつ大喜びでした。長岡での昼飲みスポットについては、また機会を改めてご紹介したいと思います。

作成者: 西口コージ

新潟県出身の風俗ライター。 学生時代から池袋の小路にあるような、しょっぱい店や垢抜けない街が好き。ピンサロ、ヘルス、ソープ、のぞき部屋、ストリップ劇場などもひととおり通い続けた、歴戦の強者と自負。古くから変わらない宴会コンパニオン業界もやはり好き。

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